中華街の駅で地下鉄を降りる。
細い道を数分歩いて、自転車ショップや蕎麦屋の向かい側の入り口から、ホールの建物へ。ギャラリーを正面に見ながら左手の階段をのぼると……。正面のガラス窓の向こうは海なのだ。早く着き過ぎた時にはそのまま海側のドアから出て、左手のほうにあるコーヒー屋のテラス席で本を読むこともある。
メインロビーが2階に位置していることもあって、どこか宙づりのようにも見えるこのホールは、中華街と海という、二つの異界に向けて入口/出口がしつらえられている点において、なんとも個性的な存在だ。こんな不思議なロケーションのホールがほかにあるだろうか ?
およそ6年前、芸術総監督の一柳慧さんにご推薦をいただいて、この宙づりヴェニューの仕事を手伝うことになった。
最初に皆で話しあったのは、いかにして小ホールのプレゼンスを増すか。使いやすいサイズのはずなのに、もうひとつピリッとした存在感が発揮できていない。多くのスタッフにアイデアを募った結果、2021年から始まったのが「C×(シー・バイ)」のシリーズだった。
過去の作曲家と現在の若い作曲家の対話、いわばねじれた二人展である「C×C」は、第1回の「山本裕之×武満徹」から3年を経て順調に続いており、幸いにして、すでに首都圏の現代音楽ファンの誰もが知る存在になっている。さらに中田恵子さんをアドバイザーに迎えたオルガンシリーズでも新しい試みが次々に行われており、この小ホールに新しいイメージをもたらしたように思う。
現代アートにとって大事なものとは何だろうか。意志、技術、知性、批評性、企み、政治性、粘り強さ……等々。どの点に重みを置くかはひとによって異なるが、何より大事なことはこれらによって、われわれの生活や実存に、ある種の摩擦がもたらされる点だろう。摩擦がなければ、それはただののっぺりした日常にすぎない。その意味でここ数年、400席ちょっとのサイズをもつこのホールは——小さいながらも——ちょっとした摩擦の発信地になり得ていたのではないか。
そして、メインの大ホール。やはり6年前からわれわれが取り組みはじめたのが、開館50周年記念となる大規模な総合芸術作品の上演だった。当初、単に「オペラ」と呼ばれていたこの企画は、しかし、単なるオペラではなく何らかの「新しさ」を含むものでなければいけない、という総監督の強い意向によって二転三転し、結果としてたどり着いたのが、オペラならざるオペラ、フィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」だった。
日本で上演されること自体30年ぶりなのにくわえて、そもそもロバート・ウィルソンの演出が前提になっているこの作品(グラスとの共作としてクレジットされている)を、平原慎太郎の新演出で行うというのだから、かなり冒険的なプロジェクトである。多くの方々の献身的な努力が実って、2022年にこの企画は成就した——初日の前日に一柳総監督がこの世を去ってしまったのは、予想外の哀しい出来事ではあったけれども。
あれから2年、本年の10月にはこの50周年企画の第二弾として、サルヴァトーレ・シャリーノ「ローエングリン」が上演される。これもまたオペラならざるオペラであり、一柳総監督の見えざる意志の賜物といってよい。
総監督は同時に、ギャラリーの活性化も常に気にかけておられた。宙づりヴェニューの地下部分に位置する広大な空間で音楽の演奏を行なうことを彼は好んでいたが、考えてみれば若き日にニューヨークで前衛美術家たちと親しく付き合った彼にとって、美術や音楽は個々の独立した存在ではあり得ず、むしろそれらの混交こそが自然な姿だったというべきなのだろう。そうしたヴィジョンを現実化する場所として、県民ホール以上の場所は日本には存在しなかった。
さて、一柳総監督がこの世を去ったあと、まるでそれを追うようにして県民ホールもその生涯を終えることが決まった。人間と同じく建築も古びてゆくから、寿命が来るのは必定。しかし、建物がなくなったとしても、二つの異界に挟まれたこのホールのゲニウス・ロキ——すなわち地霊——はけっして変わることがない。遠からぬ日に、ここにまた新しい異物が誕生し、さらに大きな摩擦を引き起こすことを願っている。