県民ホール ギャラリー

県内屈指の広い展示室を有するギャラリー。
開館当初より現代美術の一つの発信地として、同時代のアートを様々な切り口で紹介してきました。

多くの人でにぎわった大規模な国際版画展、数々のアーティストが名を連ねてきた「現代作家シリーズ」、パフォーミングアーツとのクロスジャンル的な取り組みもこのギャラリーならではの魅力です。また県内最大規模の公募展である「神奈川県美術展」では、延べ約5万人が参加し、多くの美術愛好者に親しまれてきました。

時代とともに多様な表情を見せてきたギャラリーの歩みを、開館当初から知る元学芸員の藤嶋俊會さんのコラムでふりかえります。

多くのアーティストが挑んできた巨⼤な吹き抜け空間には
芸術への熱い思いが刻まれています

県民ホールギャラリー開館50年をふりかえる

1975(昭和50)年1月17日神奈川県民ホール・ギャラリーは第10回神奈川県美術展で幕を開けました。それまでバラバラの会場で開かれていた県美術展を一堂に会して開催できるようになったのです。なお会期は日本画、洋画、版画、彫刻、立体造形の前期と工芸、書、写真の後期の二期に分けて展示されました。「充実した日本画」と近代美術館研究員の足立朗さんは神奈川新聞の「美術展から」で評しています。この時の大賞は全部門で争って選ばれた、日本画の大山鎮「語り」が受賞しました。

続いて開館記念事業としてギャラリーを特徴づける企画展が開催されます。初代ギャラリー課長に就任した柳生不二雄さんは、1951(昭和26)年鎌倉に建設された近代美術館の最初の学芸員の一人です。柳生さんは美術館に約10年在職後、民間の画廊経営に携わります。官民双方の経験を活かしたギャラリーの方針が着々と実行に移されます。それは現代作家に焦点を絞ること、具体的には日本画、洋画、版画、彫刻、立体造形、現代工芸の作家による作品展の開催、天井高6・5mの展示室を生かした彫刻展の開催、版画はアンデパンダン方式にすること、5年ごとに記念展を企画することなどでした。決して理路整然とした体系に基づいて具体案が導き出された訳ではありません。柳生さんの長年の体験が培った独特のバランス感覚に根ざしていたのです。また県立施設の不自由さを苦にせず、臨機応変の方法で事業を実現してきました。こうして近代美術館とも異なる道を歩みながら、しかしすでに市民に親しまれていた横浜市民ギャラリーと肩を並べて、ただ前進あるのみのスタートを切ったのです。神奈川では長洲知事の下で文化行政が様々な分野で議論されました。横浜市では飛鳥田市長の下で6大事業がスタートします。町名のサインなど街の様相が少しずつ変わってくるのが目に見えてきます。それまで行政が文化に近づくことはタブー視されていたのが見直され、文化の基礎造りに関わる必要があると理解されはじめたのです。ギャラリーで企画展があると、昼休みなどに知事を招き、作家と一緒に美術談義のひとときをもつこともしばしばありました。開館50年の時間は、そうした先人達の仕事をふりかえることの大切さを強く感じさせます。

(元神奈川県民ホールギャラリー 学芸員 藤嶋俊會)

現代作家シリーズ
1975-1999

絵画、彫刻、工芸、インスタレーションなど様々なジャンルから第一線のアーティストをとりあげ、現在の企画展への潮流をつくりました。

神奈川国際版画アンデパンダン展/トリエンナーレ 1975-2001

「神奈川国際版画アンデパンダン展」から、コンクール形式の「神奈川国際版画トリエンナーレ」へと変革をとげ、「ザ・版画」をはじめ多くの事業を展開。版画のカナガワとして国際的な広がりをみせました。

アート・コンプレックス
2007-2015

芸術総監督・一柳慧のコンセプトの下、美術と音楽、舞踊などのパフォーミングアーツを複合的にプロデュースしたシリーズ。

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