皆さんは、生きた化石と呼ばれる肺魚※1が甲高くキュウと鳴いたり、クゥンとくぐもったユーモラスな声を出したり、ハアとため息までつくのをご存じですか。この鳴き声こそが4億年前に生まれた私たちの声の起源と言われます。実際に聴くとごく普通に可愛らしい小動物の鳴き声のようで驚かれるかもしれません。肺魚がどこまで意識的に声を発しているのか分かりませんが、ともかく私たちの祖先は、水中から陸に生活の拠点を移すにあたって、こんな素敵な声を獲得したのです。
きっと当初は驚きや喜び、悲しみを、感情のおもむくまま声にしていたでしょうけれども、やがてそれは他者に自らの気持ちを伝える役目を担うようになりました。その後、仲間どうしで狙う獲物を特定したり、忍び寄る猛獣を知らせるため、動物の仕草や声色を真似するなりして、より複雑な情報を正確に伝えようとしたに違いありません。一人が遠吠えの真似をしている最中、偶然他の誰かが別の狼の遠吠えを真似すれば、そこで思いがけずハーモニーが生まれたはずです。互いの身体が共鳴するのに驚いたかもしれませんし、複数の声が併さると、そこに神的能力が宿ると信じてみたり、トランス状態をもたらす、音やリズムに対して畏怖や恐怖すら覚えたとしても、当時の状況を鑑みれば当然ではないでしょうか。
体格が現在の私たちへ近づくにつれ声帯や知能も発達し、音の高低や長短を意識的に使い分けられるようになって、当初原始的コミュニケーション手段に過ぎなかった声は、より入り組んで洗練された情報を正しく簡便に伝える「単語」を発明して、それらを整理し系統化して「言語」を作りあげました。一方、自らの精神バランスを保つ必要から、単語や言語で表現できない身体の芯に宿る精神、「心」や「感情」を他者と共有する手段として、言葉から切り離された「うた(音楽)」が生まれたのかもしれません。「言葉」と「うた」の間に存在する「詩」や「演劇」、「舞踏」が、現在まで続いているのは、私たちに不可欠な存在の証しです。
肺魚やシーラカンスのような肉鰭類(にくきるい)から両生類が生まれ、いつしか爬虫類と哺乳類に進化して私たち人間が生まれたように、声は、当初から情報伝達と感情表出の両面を合わせ持っていたかも知れません。「うた」が原始的な声の多面性を受け継ぎつつ、「音楽」が「うた」を他の発音体で模倣する形で誕生し、「うた」の持つ「感情を宿す力」も「音楽」にそのまま受け継がれました。私たちは「うた」を歌えば嬉しくも悲しくもなれるし、ヴァイオリンやピアノを弾いて、嬉しさや悲しさも表現できます。「言葉」のような直接的限定的な表現ではないので、曖昧で齟齬も生じるかもしれませんが、その昔私たちの祖先が行っていたコミュニケーションに近いかもしれません。
ヨーロッパでいえば、ルネッサンス期イタリアで誕生したオペラが一世を風靡したのは、登場人物の感情の起伏を際立たせた「うた」が、聴衆の琴線に直接訴えかけたからでしょう。
オペラのアリアを模して、ヴァイオリンやチェロなど弦楽器は旋律を歌うことをおぼえ、オーボエなど管楽器は、より自由に旋律を演奏可能に改良され、音量が一定だったチェンバロは、より肉声に近く音量も増減可能なピアノへ変化してゆきます。19世紀中期、ヨーロッパのある高名なピアノ奏者は、「魅力的な演奏を目指すなら、足繁く劇場に足を運んで素晴らしい歌手をつぶさに観察するのが一番」と書き残したほどです。
現在の日本に目を転じると、お話ししてきた声の歴史を過去にタイムスリップさせたような、今より五感がずっと鋭敏だった人間の超越的な能力を彷彿とさせるような、類まれな声のアーチストで山崎阿弥(やまさき あみ)さんという方の存在が光ります。およそ人間が発しているとは思いもかけない、神秘的でまるで動物のような、不思議な声を自在に使って山崎さんはパフォーマンスをします。その彼女のレッスンを見学したとき、先ず一切の先入観を消去してから、私たち本来の空間把握能力と知覚能力を覚醒させつつ、部屋の壁を手でていねいになぞり、空間全体を自らの身体へ移し替え、落とし込む作業から始まったのが印象的でした。
今年10月には橋本愛さんを迎えて神奈川県民ホールでシャリーノ作曲のモノオペラ『ローエングリン』を上演するのですが、橋本さんの役どころは、神秘的で、現代とも古代とも、人間とも動物とも判然としない、理性と本能、時には野性すら入り雑じる声を使いわける主人公エルザ役で、時にはシャーマニスティックとも感じられるほどの、シャリーノの圧倒的な声の世界観を山崎さんと研究してくださっています。『ローエングリン』を通して、どのような「声」「うた」「音楽」「世界」が溢れてくるのでしょうか。それを一番楽しみにしているのは、何を隠そう私自身です。
※1
肺のような器官をもち、空気呼吸ができる魚。古生代中期から中生代にかけて栄えた
杉山洋一 すぎやま・よういち(作曲家・指揮者)
東京生まれ、ミラノ在住。国内外で様々な舞台や演奏会の企画に携わる。一柳慧コンテンポラリー賞ほか、数々の受賞歴を持ち、2023年度は齋藤秀雄メモリアル基金賞(指揮部門)に加え、指揮および作曲活動の成果により芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2024年10月に県民ホールで上演される『ローエングリン』(シャリーノ作曲)では指揮を務める。
オフィシャルサイト
神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズVol.2
サルヴァトーレ・シャリーノ作曲『ローエングリン』
指揮 : 杉山洋一 演出 : 吉開菜央・山崎阿弥
2024年10月5日(土)、6日(日)
会場 : 神奈川県民ホール 大ホール