沼野雄司
神奈川県民ホール・神奈川県立音楽堂 芸術参与/音楽学者
そこはかとないユーモア。いや、ドイツ語でフモールという方がなんとなくふさわしい。ともかく、それこそが一柳慧という作曲家のきわめて重要な芯の一つだったのではないかと、ずっと考えている。
現代作曲家にして卓球の名手、若い頃からずっと変わらない髪型、オノ・ヨーコと結婚していたという経歴、酒はほとんど飲まずケーキが大好きなこと…。すべてにわたって、本当に育ちの良い人だけが身につけている類の「隙」がある。そこがなんともいえず魅力的だった。
もちろん、音楽も同じだ。最初期の12音技法を用いた音楽、その後の偶然性・不確定性の音楽、ミニマルを換骨脱退した70年代の音楽、そしてその後の大規模な交響曲やオペラにいたるまで、様式はまったく異なっていても、どんなにシリアスな性格の曲でも、どこかに軽やかさが漂っている。《ピアノ協奏曲第4番“JAZZ”》なんていう、あまりに直截なタイトルも、ほかの作曲家だったら絶対あり得ないだろう。
一柳さんの遺作となってしまったのが《ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲》(1)である。最後の1年くらい、一柳さんはこの曲についてよく話してくれた。作曲を楽しみながらも、史上初といってよい、邦楽器と洋楽器による二重協奏曲をどう構成しようかと、彼はとても悩んでいるようにみえた。作曲家でもない僕に「一度、楽譜を見て、意見を言ってほしい」と何度も仰ったのは、やはり不安だったのだろう。
結局、初演の日を待たずして一柳さんはこの世を去ってしまったが、はじめてこの曲が鳴り響くのを聴いているうちに、あの独特のフモールが演奏会場いっぱいに拡がるのがよくわかった。そもそも、考えてみればヴァイオリンと三味線を合わせるというミスマッチ自体が、一柳さんらしい茶目っ気をたたえているではないか。
一柳さんに誘われて、神奈川芸術文化財団の仕事に携わるようになってから、この組織にも彼ならではのフモールが漂っているのを感じた。皆まじめに働く組織なのだけれども、何かアンバランスなところがある。そして、そこがとてもいい。僕のような部外者が突然に闖入(ちんにゅう)してきたにもかかわらず、皆がそれぞれのやり方で関わってくれる。
そして今、気づくのだ。一柳さんの音楽を聴くなかで、一柳さんという人とおつきあいするなかで、そして一柳さんが芸術総監督を務めた財団の仕事をこなすなかで、僕もどこかであのフモールに染まってきたのではないかと。もしもこの感覚が正しいとしたら、とてもうれしい。
1 『読売日本交響楽団第622回定期演奏会』にて世界初演(サントリーホール、2022年10月25日)。
一柳 慧
1933年
チェロ奏者の父、ピアニストの母のもと神戸に生まれる
1945年 12歳
終戦後、母とともに御茶ノ水や飯倉の将校クラブでディナー・ミュージックを演奏し、プロとして演奏活動を始める
1949年 16歳
ピアニスト原智恵子の下で本格的にピアノを学びはじめる
1952年 19歳
2週間の船旅を経てアメリカに渡る
ニューヨーク滞在中に、ジョン・ケージ、デヴィッド・チューダー、テリー・ライリーら最先端で活躍する音楽家をはじめ、舞踊家のマース・カニングハム、現代美術家のロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズらと親しく交流する
1961年 28歳
帰国
武満徹、小杉武久、黛敏郎、石井眞木、高橋悠治、高橋アキ、磯崎新、横尾忠則ら多数の芸術家と交流
1976年 43歳
ドイツ学術交流会(DAAD)の招きでベルリンに滞在。欧州各地の音楽祭で自作の発表と邦人作品の演奏を行う
邦楽器のための作品や、国立劇場を主な舞台として木戸敏郎、芝祐靖らと協働し、正倉院の復元楽器を使うなどした、雅楽や聲明の作品を数多く発表する。1980年代には、神奈川県直営時代の県民ホールにて、シリーズ「音楽の現在」の企画構成・音楽監督を務める
1996年 63歳
神奈川芸術文化財団 理事に就任
2000年 67歳
神奈川芸術文化財団 芸術総監督に就任。以降、「時代や社会を問う新しい作品を、神奈川から発信し続けること」「自由な発想で、従来の芸術ジャンルの枠組みを越えるような作品の創造に挑戦すること」をテーマに据え、県民ホール・音楽堂の企画立案・事業制作について、総合的な指導・監修を行う
2008年 75歳
文化功労者に選ばれる
2015年 82歳
若手演奏家を支援する「一柳コンテンポラリー賞」創設
2017年 83歳
恩賜賞・日本芸術院賞を受賞
2018年 85歳
文化勲章を受章
2021年 88歳
芸術総監督就任20周年記念 「Toshi 伝説」開催
2022年 89歳
10月7日没