朝の爽やかさや、みなぎる活力を象徴するようなラジオ体操第1に対し、第2のメロディーには、どこか陰影が感じられます。まだ明け切らぬ未明の空か、あるいは、夜明けの空を覆う厚い雲か……。その陰影は、この短い曲が先へと進むほどに薄くなり、やがて、明るさと軽やかさに取って代わられるのです。
作曲したのは、日本を代表する作曲家の一人で、神奈川芸術文化財団の初代芸術総監督も務めた、團伊玖磨。1952(昭和27)年に発表されたこの曲は、鎌倉に暮らした頃の作品です。『青空の音を聞いた 團伊玖磨自伝』※1に、当時のことが記されています。
「鎌倉では沢山の曲が生まれた。NHKの幼児の時間のための小さな歌、今も日本中の子供が歌って呉れている『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『おつかいありさん』等は皆鎌倉の日光の中で生まれた」
まるで、鎌倉の日の光から音楽が湧き出てきたかのようです。同書にはまた、八丈島についてのこんな一節もあります。
「画家や紀行文作家のように、外界が作曲家に刻々影響を与える事は無いと僕は思っているのだが、今考えると、八丈富士の上に巻き上がる亜熱帯の雲や、仕事場の窓からいつも見下ろしていた黒潮躍る海が、僕を合唱と管弦楽の世界に誘い続けていたのかも知れないと思う」
代表作であるオペラ『ひかりごけ』は、八丈島で生まれました。1964(昭和39)年からこの島に書斎を構えていた團は、『ひかりごけ』の作曲のため、1年半も「島籠り」(同書)をした、といいます。
このように、名文家としても知られた團の随筆には、都市や地域の描写が数多く登場します。誰にも故郷や生活の場があり、土地から自由ではいられませんし、留学や演奏旅行の機会の多い音楽家ならば、なおさらでしょう。しかし團の場合は、それがとりわけ具体的、かつ身体的であるようです。例えば、36年余りにわたって雑誌『アサヒグラフ』に連載された随筆『パイプのけむり』には、かつて東京にあった水路の記憶がつづられています。
「よく、ボートを借りて、外堀を上って数寄屋橋の方に漕いで行ってみたり、又、新橋の下を抜けて、三十間堀に左折して、木挽町の紀伊国橋の方まで遊びに行った」(同書「ずどん」より)
東京の新橋や銀座あたりの話です。自分の体を動かして、人力で動く速度でもって、街に慣れ親しむ。だからこそ「東京」や「中央区」といった大きな地名ではなく、橋や堀という、人に近い尺度で語ることができたのでしょう。もしかしたら、くだんの「ラジオ体操第2」の陰と軽やかさは、山に囲まれた鎌倉を出て切り通しを抜け、広い地平が開ける徒歩の道のりにも重なっているかもしれません。
そういう身体的な地理感覚は、東京・原宿に暮らした幼少期、あちこちの原っぱを駆け回るうちに体得したもののようです。さらに、戦争中の空襲で焼け野原になり、自然の地形があらわになった東京を目の当たりにしたことで、視覚的にも深く印象づけられました。
この「地理的経験」は、戦後の作曲家としての歩みへとつながります。長じてヨーロッパや中国への旅を重ね、自らの音楽の立脚点に思いを巡らせた團は、次のように考えました。
「僕の歌う音楽は、日本国という国家意識の産物では無い。国家は国民一人一人に絶大な力を持つが、芸術の出発点としては脆弱なものだ。民族。遙かにその方が強いが、それも絶対のものでは無い。(略)では何が僕を規定するだろう。それは地球上の地域である」(前掲自伝)
果たして、團が心得た音楽家としての立脚点とは、「東アジアの作曲家として日本列島に立つ」ことでした。蛇足ながら、ここでいう「日本列島」とは、決して抽象的な国家のことではないでしょう。八丈島であり、鎌倉であり、自宅を構えた横須賀・秋谷であったでしょう。岩場の多い、ごつごつした相模湾の海岸、その向こうに望む富士、そこを吹く風。そういう具体的な一つひとつが、いとおしさとともに、團の胸中に浮かんでいたはずです。
※1
日本経済新聞社、2002年
齊藤大起(神奈川新聞社 編成部記者)
[さいとう・ひろき]1979年生まれ。2004年、神奈川新聞社入社。相模原、川崎の両支局と、経済部を経て、14年にわたり文化部記者を務め、KAATなどの取材を担当。
團 伊玖磨について
1924年東京生まれ、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)作曲科卒。山田耕筰や諸井三郎にも師事した。1952年初演のオペラ『夕鶴』は大好評に。オペラ、交響曲、管弦楽曲をはじめ『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』など童謡も手がけた。2001年没。
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