日本人の心の美しさ・健気さを一貫して追求した映画監督の木下惠介は、太平洋戦争の被害が深刻化しつつある時期に撮影した陸軍省後援映画『陸軍』(昭和19年12月公開)の終盤で、戦地に赴く隊列に息子の姿を見つけ、その無事を祈って行進に追いすがり涙して見送る母親〔俳優 : 田中絹代〕を、一言のセリフも介さずに描きました。映画は当時の国策にのっとった内容でしたが、木下にとって息子の無事を願う母の切なるシーンだけが重要でした。しかしこの場面が“女々しい”と情報局ににらまれて、木下は映画監督としての将来を断念します。その後8ヶ月して日本が戦争に敗れて時代が転換すると、木下は直ちに次作『大曾根家の朝』にとりかかります。公開は敗戦から半年後の昭和21年2月でした。
描かれたのは昭和18年から20年の直近の時代、舞台は日清・日露戦に勲功のあった陸軍少将を祖父にもつ大曾根家。父は大学教授で自由主義者でしたがすでに亡く、未亡人の房子〔杉村春子〕と一郎・泰二・悠子・隆の三男一女の生活は、昭和18年のクリスマスにピアノを囲んで「きよしこの夜」を歌い祝うような家風でした。しかしこのような聖夜に、時勢に批判的な文章を書いた一郎は思想犯として収監され、悠子は婚約者の実成を戦争にとられてしまいます。
兄弟の叔父・大曾根一誠〔小沢栄太郎〕は、職業軍人で陸軍大佐でした。軍国主義の威風を吹かせ、一郎逮捕を家の恥だとして、横暴にも実成家にまで出向いて悠子との婚約を解消させてしまいます。
翌19年、画家志望の次男・泰二も召集されて兵役に就きますが戦地で病を得てその後死亡。空襲で家を焼かれた一誠夫妻が大曾根家に同居することとなりますが、かねてから自由な家風が面白くない。一誠は同居に際して房子に「あなたが嫁に来られてから大曾根家の家風は一変しましたなぁ」と切り出し、「兄貴の自由主義は付け焼き刃にすぎなかった」が「あなたの場合は貿易商をご両親にもたれ、ご自身は横浜の外人の学校を出られて、身についたものでした」と義姉に対し、いんぎんな口調で非難します。そして純真で感化されやすい三男・隆の海軍志願には手放しで満足の意を表すのでした。
昨年末に亡くなった吉田喜重監督の代表作『秋津温泉』(昭和37年6月公開)は、山陰の山奥の旅館が舞台です。戦時下で湯治客はなく、軍医の宿舎となっている秋津荘に、空襲で郷里・岡山の実家を焼かれた河本〔長門裕之〕が転がり込みます。河本は小説家志望でしたが、結核で東京での大学生活を逃れて帰郷したのでした。その夜、夜具をおさめる蒲団部屋をあてがわれた河本のもとに旅館の娘・新子〔岡田茉莉子〕が逃げてきます。新子は軍医らの酒席で「日本が負ける」と口を滑らせたようでした。「婦女子の妄言とはいえ、けしからん」と怒声をあげて日本刀を振り回していた軍人がなだめられて酒席に戻ると、新子は自身の身の上を河本に語りはじめます。「私この3月に女学校卒業するまで横浜にいたのよ…。こんな山ン中来るの嫌だったけど、空襲はひどくなるし…、お母さんここに再婚してたでしょう。お父さんが死んだから来たのよ…。ここの義理のお父さん、私嫌いだったのよ」。お下げ髪をもてあそびながら、開けっぴろげな言いようで、初対面の河本に語ります。それは軍人を前に「日本は負ける」と口を滑らせかねない、無垢で無防備な明るさをたたえ、生きることに真剣に向き合っていた河本の心も動かすのでした。
『大曾根家の朝』の房子と『秋津温泉』の新子。日本映画の名作に登場するこの二人の女性は年齢こそ違え、いずれも青春期を横浜の自由で清新な雰囲気のなかで過ごした、軍国主義に馴染まず、軍国主義を最も苛立たせる存在の女性でした。そして新子と同じ世代の大曾根家の娘・悠子も、叔父・一誠が工場労働に代わる安逸な事務職に就けても「居心地が悪い」と口にし、財産家の結婚相手を紹介しても決して肯んじない、強い自由意思を発露するのでした。
『大曾根家の朝』では、日本が降伏した虚脱感のなかで、三男・隆が敗戦前日の特攻で散ったことが知らされます。一誠夫妻に対して諸事遠慮がちであった房子は、ほとばしるような強さで家から出ていくことを一誠に言い渡し、大曾根家にとっての戦争責任を明らかにするのでした。そしてその直後、悠子の婚約者・実成が帰還。長男・一郎も釈放され、大曾根家に“朝”が訪れます。
対して秋津荘の新子は、戦後山奥の旅館を継いで、数年に一度訪れてくる河本を待ちくたびれて生気を失っていき、河本も世俗の垢にまみれていきます。何度目かの再会のあと、新子は秋津の渓谷で手首を切り、河本の腕のなかで骸を横たえますが、敗戦直後の無垢な時代に魂を共振し合った河本は、その自死をまったく理解できないで終わります。
「戦争は女の顔をしていない」ことを日本映画のスクリーンに濃厚に示した二人の女性の運命は、まことに対照的でした。
平野正裕[ひらの・まさひろ]
1960年静岡県生まれ。東海大学大学院修了後、1986年横浜市史編集室勤務。1992年横浜開港資料館調査研究員となり、のち主任調査研究員。経済史・文化史を担当。2015年横浜市史資料室に移り、2020年退職。